2014年11月13日木曜日

修士論文始末記

鈴木 隆雄20143月大学院修了)

私が大学院に進もうとしたのは「充実していた4年間の大学生活をそのまま終わりにしたくなかったから」という単純な理由であったが、今考えてみると、この目的の軽さが修士論文作成に対する気構えを曖昧にしてしまったような気がしている。

つまり、60歳を超えてから大学へ、さらに大学院に進むということは、終了後、特定の職場に就職することを目的としたわけではないため、ややもすると学問の目的を見失う恐れが生ずる。

それでも初めのうちは「修了することが目的ではなく学問そのものが目的だ」と本気で考えてはいたのだが、徐々に「ここまで来たのだから是が非でも修了しなければ」の現実路線に変わっていく自分を情けなく思ったことは認めざるをえない。

さらに月日が進むと、「学問への飽くなき探求者」と他人から称賛されつつも、自分の内心ではむしろ、「ここで中退しても誰にも迷惑をかけるわけではない」と、あたかも退学を合理化するかのような考えに陥り、一時期後ろ向きの弱い自分を見たこともあった。

大学の卒論においてもアダム・スミスの『道徳感情論』を取り上げているが、もともと倫理学に興味があったことにより、「アダム・スミス経済学」の底流にあると言われている道徳哲学の掘り下げが、自然に大学・大学院の集大成になると思い込み、修論についてもこれ(アダム・スミス)を踏襲する以外の選択肢をもちえなかった。

(大学の)卒論では、単に『道徳感情論』の内容を満遍なく紹介し、現代の倫理的問題との接点を論じたものの、最も大切なスミス理論の真髄を検証したわけでなく、スミス理論が正しいことを前提とした、読書報告文的な構成に終わったことを後悔している。

修士論文において菊池教授に教えられたことは、理論のオリジナル性とともに(研究史のなかでの)自分の立ち位置を意識せよ、ということであったが、数多くのスミス研究者の膨大な理論にどう切り込むか、当初は寝ても覚めてもそのことが頭から離れなかった。

論文の中心は、「他人を称賛または非難するとき、それは何に基づいて判断するのか」である。スミスの『道徳感情論』や日本の著名なスミス研究者によると、この道徳性の判断は当事者の意図・外的行為・結果のうちのどれかによって行われるとしており、私もこれを修論のメインとなる試行錯誤材料とした。

結局、この三つについていろいろと考察することになり、最終的には当事者の「意図」が判断基準になるという結論めいた締めくくりに至ったが、人の心の中にある「意図」をどうやって他の者が判断するかが次の問題として浮上し、これまた難題であった。

論文を書き上げて思ったのは、オリジナル性とか自分の立ち位置を明確に主張したとはとても言えず、また何かと独自性を出そうと試みたにもかかわらず、終わってみれば人様に見て貰うにはあまりにもお粗末な出来であった。

しかしながら、他人の「意図」を把握する一般的な方法としての「言葉」については、「欺瞞」という人間の弱さによって歪められることが多く、正確な意図の把握は困難であることをはじめ、私としては大きな勉強になった。

とはいえ、論文の究極目的が社会へのメッセージ性をもっているか否か、にあることを考えると、自分のための学問には違いないが、もっと幅広く社会への発信を意識した修論であるべきだった。


以上。


提供:菊池壯藏教授