2017年2月15日水曜日

暗黙知を形式知に変える(西川和明教授) 

※福島大学経済経営学類後援会会報  53号(2017.1/27発行) 転載記事

暗黙知を形式知に変え  

        
 経済経営学類 教授  西川 和明 


日本は製造業の多くの分野において世界的に最高水準の技術力を誇る工業国である。しかし、終戦から間もないころ工業基盤が壊滅状態にあった中でひとりの通産官僚の働きがなかったとしたらこれほどまでの工業国としての発展があったろうかと思うことがある。その官僚の名前は赤澤璋一氏である。

日本は1945年の終戦と同時に、GHQ(連合軍総司令部)の命令によって航空機メーカーが解体され、また大学でも航空力学などの授業が休止されることで航空機を開発・生産する能力はまさに風前の灯のようであった。
国産機製造禁止措置は1957年に解禁されることになっていたが、56年当時通商産業省の航空機課長だった赤澤璋一氏は、「終戦から11年がたち、このままだと航空機開発技術が雲散霧消してしまう」という危機感を抱き、解禁に先立って、日本中に散らばったかつての航空機設計技師たちを呼び戻す活動を始めた。彼らの中にはやむなく町工場で“やかん”や“リヤカー”づくりなどで生計を立てている者たちもいた。赤澤氏が彼らを東京に集めたのちに彼らに与えた任務は、三菱や川崎など重工各社から参集した若手技術者たちに航空機設計について知識を伝授することであった。まさに、一橋大学の野中郁次郎名誉教授の説く「暗黙知を形式知へ」の実践であった。つまり、戦中戦前に航空機を設計して来た技術者の経験や勘に基づく知識(暗黙知)を、全くそういう経験のない若手技術者に言語や図(形式知)で伝授することであった。そして、多くの失敗を繰り返しながらも戦後初の国産旅客機であるYS-11として実を結び、同機は62年に初飛行成功後は世界中の空に飛び立った。さらにそれから54年後の今年、MRJが初飛行に成功したということは、戦前からの航空機設計技術が途絶えることなく引き継がれてきたことの証でもあった。

航空機の部品点数は百万単位であり、万単位の自動車をはるかに上回る。航空機産業を有することは裾野となる製造業全般の技術水準の向上につながるのである。赤澤氏はこのことを60年前に見越して行動したのであった。


赤澤氏はその後、重工業局長で通産省退官後にジェトロ理事長を務めてのち2002年に亡くなった。以上の話は、筆者が本学に入職する前のジェトロ職員であった1994年に同氏の秘書役として海外出張に同行した折に聞いた話をまとめたものである。赤澤氏の実践した「暗黙知を形式知に変える」は、筆者自身が現在取り組んでいるテーマでもある。それは、「東日本大震災後の福島県内企業に学ぶ経営」である。つまり、福島県中小企業家同友会と共同で、震災からの復興あるいは防災という視点で「被災から5年の経営の歩み」を調査している。この調査は、経営者の震災からの復興努力という暗黙知を、アンケートとインタビューで形式知化することによって報告書にまとめ、全国の経営者に情報提供することで「事業継続の備え」として役立ててもらうことを目指している。筆者の福島大学教員生活の最後の仕事となるものであり、大学での研究の集大成にしたいと考えている。