山川 充夫(教授)
なぜ福島大学経済学部に赴任したのか。もともと学士課程を愛知教育大学教育学部で、大学院を東京大学理学系研究科で、助手を東京都立大学理学部で過ごしてきた私にとって、福島大学経済学部がいかなる存在であるのかを知ることになったのは、極めて偶然なことでした。福島大学で地域経済論の教員の募集があったことを知ったのは、1979年の夏から秋にかけて、科学研究費による海外調査、フィリピンとインドネシアの農村の比較研究をおこなうために、フィリピン・ルソン島の平野のど真ん中にあるママンディル村に滞在していた時でした。その村には予備調査で1ケ月、本調査で2ケ月、合わせて3ケ月滞在し、その村の村長さん宅にホームスティさせてもらい、毎日、農家で休憩している農民や広い水田で収穫作業をしている農民に対して、米生産費、土地所有関係、さらには家族関係など多項目にわたるヒヤリング調査を繰り返し行っていました。
そんな折、日本から一通の電報を受け取りました。この電報は何か所か誤植があり、最初はその内容が全く把握できなかった。半日ほど眺めていると、どうも福島大学経済学部で地域経済論の助教授を募集しているので、一度連絡をしてほしいということが分かってきました。確認するために国際電話をかけるにはどうしてもマニラまで行く必要があり、マニラのホテルまでサイドつきオートバイとしてのトライシクルジープを改造した乗合ジプニー、都市間バス、タクシーと乗り継いで行きました。ホテルから情報を提供してくれた方に国際電話をし、女房に国際電話をし、とにかく応募することにしました。それは応募したからといって採用が決まっているわけではないという気持ちでの応募でした。応募書類も主論文の概要は現地で手書きしたもの、主論文等は大学院生(現、宮城教育大教授)に複写して送ってもらいました。そのため採用が決まるとは全く思っていませんでした。・この思い違いは私にもう一つの道を歩ませることになり、同時に妊娠中であった女房には大きな負担を強いることになりました。
12月の初めに、経済学部の真木実彦教授(現、名誉教授)から電話があり、採用に関わり面接をするので福島まで来てほしいといわれました。まだ東北新幹線が開業しておらず、急行に乗って福島に行きました。市電はすでになくなっていたが、福島駅前はさほど変わっておらず、五輪真弓の「枯葉散る夕暮れは~」の雰囲気をまだ残していた。当時は、経済学部があった森合校舎には電車に乗って行ったのか、歩いて行ったのか記憶には残っていません。面接は、大正時代につくられた森合校舎の確か学部長室で行われたと思います。面接の内容はこれも良くは覚えていませんが、今は亡き三宅晧二先生の質問だけは印象深く記憶に残っています。「君、地理と経済は何が違うのかね」との質問を受け、これに対しては、専門が経済地理学であり、その研究視点の軸足を地理学から経済学に移して経過を回答するにとどまったと思います。山田舜学部長(当時)が面接試験の様子をあのにこにこした顔をして、後ろから眺めていたことも覚えています。
さて1980年4月に地域経済論の助教授として赴任し、2階にある研究室に入りました。建物は木造ですので、廊下は鴬張り的で、歩くたびにきゅっきゅっという音がしました。内線電話は研究室内ではなく廊下にあり、また外線電話は事務室まで行かなければなりませんでした。暖房は石油ストーブで、石油がなくなると用務員室の声の大きな菅野一(はしめ)さんのところにもらいに行きました。研究室の定員は2名でしたが、相手の吉原泰助先生(元学長)が外地研究でフランスに行っていたことから、一人で使っていました。その時には、フィリピン農村調査の原稿を4本ほど書きました。森合校舎での1年間は同窓会の方々との交流に大変役立ちました。それは経済学部長をしていた時、同窓会先輩諸氏とは「森合を知っています」ということだけで、意思疎通が可能となったからです。
福島大学には32年間お世話になりました。定年前2年間はうつくしまふくしま未来支援センター長(学長特別補佐)として、勤務しました。センター員の支援活動成果を周知するべく、論文書きをほぼ月1本、講演活動をほぼ週1回こなしてきました。そして原子力に依存しない社会を展望する「福島県復興ビジョン」の策定には一定の貢献をしたつもりです。定年退職後は、縁あって宇都宮市にある帝京大学経済学部地域経済学科に産業立地論・都市経済学・交通経済学・地域経済学・社会資本論担当(多いですね)として勤務する予定になっています。福島の復旧復興の先行きに思いを寄せつつ、今後ともお付き合いのほどよろしくお願いします。